「ドレスを着て、部屋で紅茶でも飲もう」半年眠っていた5万円のドレス姿。だが、母が部屋をのぞいた瞬間
毎日足を止めた、マネキンの前
40年ほど前、20代で独身だった私は、実家から会社へ通っていました。
仕事帰りには、駅へ向かう途中にある百貨店の婦人服売り場へ、よく立ち寄っていました。
目当ては、入り口近くのマネキンが着ていたワインレッドのドレスです。
肩もとはふわりと広がり、すそは床に届くほどの長さ。
値札には5万円と書かれていました。
決して気軽に買える金額ではありません。
それでも毎日のように眺めているうちに、どうしても欲しくなり、ある日とうとうレジへ向かいました。
箱に入れながら、店員さんがにこやかに声をかけてくれました。
「すてきなお色ですね。何かのお式で着られるんですか?」
「いえ、まだ予定はないんです。これから着る機会を作ろうと思って」
少し照れながら答えると、店員さんは「そうなんですね」と笑って、箱にきれいなリボンをかけてくれました。
ところが、待っていても着ていく予定はできませんでした。
会社と家を往復する毎日に、華やかなドレスを着る機会はありません。私はドレスを部屋の壁に吊るし、毎晩のように眺めていました。
鏡の前で始めた、ひとりパーティー
買ってから半年ほどたった、ある土曜日の夜。
壁に掛かったドレスを見ているうちに、ふと思いました。
「そうだ。ドレスを着て、部屋で紅茶でも飲もう」
誰かに見せる必要なんてない。せっかく買ったのだから、一度くらい着てみようと思ったのです。
ドレスに着がえて髪を上げ、台所から紅茶をいれてきました。鏡の前に立つと、いつもの自分とは少し違って見えました。
気分が乗ってきた私は、誰もいない部屋の隅に向かって、
「まあ、お久しぶり。お元気でしたか」
などと声をかけ、少し気取って小指を立てながらカップを持ち上げました。ひとりきりなのに、すっかりパーティーに招かれたつもりになっていたのです。
そのときでした。
コンコン、と背後でノックの音がしました。
振り返ると、ドアが少し開き、母がこちらをのぞいていました。腕には、私のものらしい洗濯物を抱えています。
母はドレス姿の私と、手にした紅茶のカップを交互に見ました。そして、少し間を置いて聞きました。
「……今日は、どこか行くの?」
「……ううん。どこにも」
「そう……」
母はそれ以上何も聞かず、そっとドアを閉めました。
私はカップを持ったまま固まりました。ついさっきまでパーティーの主役だった気分は、きれいに消えていました。
結局、その後もドレスを着て出かける機会はありませんでした。何年もたつうちに、ワインレッドの色も少しずつあせ、人前で着られる状態ではなくなっていきました。
そして、買って帰った日以来、そのドレスが次に家の外へ出たのは、処分するためにゴミへ出した朝でした。
袋の口からのぞくワインレッドのすそを見ながら、私は苦笑しました。
あれほど外へ着ていく日を待っていたドレスの晴れ舞台は、結局、ゴミ置き場になってしまったのでした。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた60代以上女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














