「ずいぶん急いでるね」映画館前のバス停で足早に降りた若い男性。だが、70代の母に向かって両手を差し出した理由
人の手を借りるのが大きらいな母
数年前、40代だった私は、姉と母の3人で映画を見に出かけました。
70代になったばかりの母は、以前より段差を下りるのが少し苦手になっていました。それでも、人に手伝ってもらうのは大きらい。何でも自分でやりたがる人でした。
駅前のバス乗り場でも、姉が母のかばんを持とうとすると、すぐに断られました。
「いいわよ、自分で持てるから。そんなに年寄り扱いしないで」
「はいはい、分かりました」
姉は苦笑いして手を引っ込めました。
母はバスの手すりをしっかり握り、ゆっくりと乗り込みます。私と姉はその後ろに続き、車内の真ん中あたりに座りました。
車内は半分ほど席が埋まっていましたが、落ち着いた雰囲気でした。
やがて映画館の前のバス停に到着し、私たちが席を立ったときのことです。
後ろから来た20代くらいの男性が、私たちの横をすっと通り抜け、足早に降り口へ向かっていきました。
その様子を見て、姉が私の耳元でささやきました。
「あの人、ずいぶん急いでるね」
「すごい勢いね」
私たちはそんなことを話しながら、母と一緒に降り口へ向かいました。
差し出された両手に、母が返した一言
母を先頭に、私と姉が後ろに続いて降りようとした、そのときです。
先ほどの男性が、バスの外でくるりと振り返りました。
そして、何も言わずに母へ両手を差し出したのです。
私と姉は思わず顔を見合わせました。
急いでいると思っていた男性は、母がバスの段差を下りるのを手伝おうと、先に降りて待っていてくれたようでした。
「あ……そういうことだったんだ」
姉が小さくつぶやきました。私も、さっきの会話が恥ずかしくなりました。
ところが、母の反応は私たちの予想とは違いました。
差し出された手を見つめ、それから足元の段差を確認すると、手すりをぎゅっと握り直したのです。
「バスの段差くらい、ひとりで降りられるわよ」
そう言って胸を張り、一段ずつ慎重に足を下ろしていきました。
男性は困ったように笑いながらも、母が歩道に降りるまで、そばで両手を差し出したまま待っていてくれました。
結局、母はその手を一度も借りませんでした。
私と姉もバスを降り、男性に頭を下げました。
「すみません。せっかく手を貸そうとしてくださったのに……。ありがとうございます」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
男性はにこっと笑って手を下ろし、そのまま足早に歩いていきました。
母はその背中を見送ると、どこかうれしそうな顔で映画館へ歩き始めました。
そして、私たちに話しかけてきたのです。
「ねえ、見た?さっきの若い人、手を差し出してくれたのよ」
「見てたよ。でもお母さん、断ってたじゃない」
姉が笑いながら言うと、母は平然と答えました。
「それとこれとは別なの」
その返事がおかしくて、私も姉も思わず吹き出しました。
自分のことは自分でしたい。でも、誰かが気遣ってくれたことは、ちゃんとうれしい。
そんな母らしさが詰まった出来事でした。
母がいなくなった今でも、姉と会うとあの日の話になります。
そして決まって、母の「それとこれとは別なの」という言葉を思い出し、二人で笑ってしまうのです。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた40代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














