「隣の音が気になります」宿泊先の隣の部屋から響く騒音。だが、宿が見せた気遣いに心温まった
隣の話は、一言もしなかった
連休に、一人で宿へ出かけたことがある。観光が目的ではなく、部屋でゆっくり本を読むためだった。
選んだのは、客室数の多くない静かな宿だった。廊下を歩く人も少なく、扉が閉まる音さえ遠くに聞こえるような場所だった。
ところが、一日目の夜から隣の部屋の音が気になった。
何かを動かしているような音や、床を歩く音が、ときどき壁の向こうから聞こえてくる。ずっと続くわけではない。それでも、本を読んでいると一度気になった音を待つようになってしまった。
同じ行を何度も読み直して、気づけば数ページしか進んでいない。
二日目も似たような状態だった。
「隣の音が気になります」とフロントへ伝えれば、何か対応してもらえたのかもしれない。
けれど、隣の方が特別に騒いでいるのかは分からなかった。普通に過ごしているだけで、建物の造りによって音が響いている可能性もある。
そう考えると、苦情を言う気にはなれなかった。
三日目の朝、私はフロントへ向かった。
「部屋を変えていただくことはできますか」
スタッフの方に聞かれ、少し迷ってから付け加えた。
「できれば、静かな部屋だとありがたいです」
それ以上の説明はしなかった。隣の部屋についても、一言も口にしなかった。
スタッフの方は理由を聞き返すこともなく、しばらく端末を確認してから顔を上げた。
「最上階のお部屋が空いております、鍵をお持ちしますね」
その夜、本は最後まで進んだ
案内されたのは、廊下のいちばん奥にある部屋だった。
「同じ料金で大丈夫ですか」
思わず聞くと、スタッフの方は「本日はこちらで大丈夫です」とだけ答えた。
荷物を運んでもらっているあいだも、なぜ部屋を変えたいのか聞かれることはなかった。
新しい部屋に入り、机の上に本を置いた。
それまで読んでは戻っていたページを開き、続きを読み始める。
しばらくして顔を上げたとき、部屋の外はすっかり暗くなっていた。
その夜、私は本を最後まで読み終えた。
隣の方とは、結局一度も顔を合わせなかった。どんな方だったのかも、何の音だったのかも分からないままだ。
翌朝、チェックアウトのためフロントへ行くと、前日に対応してくださったスタッフの方がいた。
「昨夜はゆっくりお過ごしいただけましたか」
「はい。おかげで本も最後まで読めました」
そう答えると、その方は小さく笑って「それはよかったです」と言われた。
追加料金もなく部屋を替えてもらったことには、少し申し訳なさが残った。
それでも、隣の方を悪いと決めつけずに済んだことには、今もほっとしている。
誰が悪かったのかは、最後まで分からない。
ただ、静かに本を読みたかった私と、その希望を余計な詮索なしに受け取ってくれた宿の方がいただけだった。
読み終えた本は、今も棚のいちばん上に置いてある。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














