「全部無料でしょ!」サービスのお菓子を大量に持って帰ろうとする客。だが、バーテンダーの一言で態度が一変
籠の菓子が一気に減った
その宿では、滞在中の飲み物も軽食も料金に含まれます。夜になると、ロビーの奥でバーが開くのです。
カウンターの上には、小袋のお菓子を山にした籠。脇に、お茶漬けを作れるコーナーもあります。
私は隅の席でグラスを傾けていました。周りにはお酒を楽しむ大人が何組もいて、低い笑い声が続きます。
六十代くらいの女性が入ってきたのは、九時を回った頃です。
まっすぐ籠の前に立ち、迷わず手を突っ込みます。
「全部無料でしょ!」
大きな声ではありません。それでも、近くの何人かが顔を上げたのが分かりました。
手のひらに取れるだけ握って、上着のポケットへ。もう一度握って、反対のポケットへ。上着の両側が、こぶのように膨らみます。
女性の足は、そのままお茶漬けのコーナーへ。
お茶漬けの素の箱にも手を入れ、また鷲掴み。バッグの口を広げ、まとめて落とし込みます。
「部屋で食べるから」
誰に聞かれたわけでもないのに、そう言うのです。
カウンターの内側のバーテンダーは、その間、何も言いませんでした。グラスを拭きながら、籠のほうを一度見ただけです。
女性がバッグの口を閉めようとした、その時でした。
責めない言葉で、手が止まる
彼は布巾を置いて、カウンターの外へ出てきました。女性の正面ではなく、少し斜めに立ちます。
「お部屋でお召し上がりでしたら、お持ちしますのでお申し付けくださいね。こちらは補充の数を決めておりますので、後からいらっしゃるお客様のぶんも取っておきたいんです」
非難の言葉は一つも入っていません。それでも女性の手が、ぴたりと止まったのです。
「……後から来る人の分」
「はい。遅い時間にいらっしゃる方もおられますので」
女性はバッグをのぞき込み、それから上着に目を落としました。膨らんだポケットを、確かめるように押さえます。
「そう。それなら、返すわ」
ポケットから小袋を出して、籠へ戻し始めました。一つずつ、丁寧に。バッグからも、お茶漬けの素を取り出します。
残したのは、お菓子が二つと、お茶漬けが一つでした。
「これで足りるわね」
「十分でございます。お湯はお部屋のポットのもので大丈夫ですよ」
彼は最後まで、声の高さを変えませんでした。
女性が去ったあと、彼は減った籠に新しい袋を足していました。何事もなかったような手つきです。
次の日の朝、ロビーへ降りると、開店前のバーの前にあの女性が立っていました。
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
彼のほうから、先に声をかけていたのです。
女性は何か言いかけて、やめました。代わりに、小さく頭を下げていきます。
宿の朝の、それは静かなやりとりでした。
※tendが独自に実施したアンケートで集めた、50代・女性読者様の体験談をもとに記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














