「これ、変えてもらえる?」1時間前に買ったパンの交換を迫った客。だが、店側の正論で空気が一変
袋を提げて戻ってきた人
昼をすぎた店は、人の波が一度引く時間です。私は裏で生地を天板に並べ、焼き上がりを待っていました。
うちの店では、成形まで済ませた生地を在庫として置いてあります。棚が減った分だけ焼いて足すのです。
その日、人気の惣菜パンが一つ残らず出てしまいました。最後の一つを買っていかれたのは、四十代くらいの女性です。
レジでは何もおっしゃらず、袋を提げて出ていかれました。在庫はまだあります。私はすぐに焼き足して、湯気の残る品を棚へ並べました。
その方が戻ってこられたのは、それから1時間ほど経った頃です。
手には、うちの店の袋。
「これ、変えてもらえる?」
カウンターに置かれた袋の中身は、さきほどお売りした惣菜パンでした。
「あの時はこれしか無かったのよ。今、焼きたてが並んでるじゃない」
「恐れ入ります。お会計のレシートはお持ちでしょうか」
女性は財布に手をかけて、そこで止まりました。
「レシートは無くてもいいでしょう」
「決まりですので、確認をさせていただいております」
渋々といった様子で出された紙の時刻は、私が焼き足すよりも前。ずいぶん時間が経っていました。
「……そんなに経ってた?」
声が、少し弱くなりました。
札が置かれるようになった棚
そこへ、事務所から社員が出てきました。私が身構えたのは、断り文句が始まると思ったからです。
ところが、その人が最初に口にしたのは謝罪でした。
「次に焼き上がる時間をお伝えしていなかったのは、私どもの落ち度です。申し訳ありません」
深く頭を下げます。女性は、返す言葉を探すように黙りました。
「ただ、お会計から1時間が経ったお品の交換は、今回限りとさせてください。次からは焼き上がりの時刻を必ずお伝えします」
低い声でしたが、最後まで語尾が下がりませんでした。
女性は口を開きかけ、レシートを畳んで財布へしまいました。
「……分かったわ。ありがとう」
「こちらこそ、失礼いたしました」
焼きたてを詰めた袋を受け取り、女性は静かに帰っていかれます。ドアの手前でもう一度振り返り、小さく会釈をしていきました。
翌週、棚に変化がありました。値札の隣に、木の小さな札が立ったのです。
札には、次の焼き上がりの時刻を書き込む欄がついています。焼くたびに書き換えるのが、私たちの仕事に加わりました。
札を置いてからは、棚の前で足を止めたお客様に、声をかけられることが増えました。
「これ、あと三十分で焼けるのね。待ってようかしら」
そう言って、店内の椅子に腰かけていかれる方もいます。
あの日のような揉め事は、それきり起きていません。
※tendが独自に実施したアンケートで集めた、30代・男性読者様の体験談をもとに記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














