「前のお客様のお会計が途中でして」会計途中で化粧室へ行った無口な常連客。レジ前での葛藤とは
レジ台に置かれた、お札と小銭
その方は月に何度も来られる常連客でしたが、こちらの声に返事をされた記憶がほとんどありませんでした。
注文するときはメニューを指でさし、水がなくなればグラスを少し前へ出す。それだけで用事は伝わっていました。
座る席もいつも同じでした。
食事が終わると卓上の調味料をきちんと元の位置へ戻してから立たれるので、私は「静かな方なんだろうな」と思っていました。
その日も食事を終えると、いつものようにレジへ来られました。
伝票と、お札と小銭が台の上に置かれます。
「ありがとうございます。お会計ですね」
返事はありません。
私は伝票を読み取りました。
うちはセミセルフレジで、店員が伝票を読み取ったあと、お客様自身がお金を機械へ入れる仕組みです。
ところが顔を上げると、その方はもうレジから離れようとしていました。
「あ、お客様…」
一度声をかけましたが、足は止まりません。
「すみません、お会計がまだ…」
もう少し大きな声を出せばよかったのだと思います。
それでも、普段からほとんど話されない方を強く呼び止めるのがためらわれて、最後まで言葉を続けられませんでした。
そのまま化粧室の戸が閉まりました。
「どうしよう…」
思わず小さくつぶやきました。
店員側の判断だけで、置かれた現金を勝手に機械へ入れるわけにもいきません。
操作が苦手なお客様から、
「悪いけど、これ入れてくれる?」
と頼まれて手伝うことはあります。
けれど今回は、何も言われていませんでした。
画面には会計金額が表示されたままです。戻ってこられるかもしれない状態で、私の判断で取り消していいのかも分からず、レジの前で立ち尽くしてしまいました。
湯呑みだけが残った席
そのうち、後ろにお客様が並び始めました。
「すみません、少々お待ちいただけますか」
「あ、はい」
一人目のお客様はそう答えてくれました。
それでも列がもう一人増えると、だんだん胸が苦しくなってきます。
「申し訳ありません。今、前のお客様のお会計が途中でして…」
並んでいた方はレジ台のお札を見て、それから私の顔を見ました。
「ああ、なるほど」
責めるような言い方ではありませんでした。それでも私は、余計に焦ってしまいました。
その方が座っていた席には、湯呑みが一つ残っています。
片づけに行くこともできずにいると、おしぼりの籠を抱えた先輩が通りかかりました。
「あれ、あの席まだ下げてないの?」
「あ…まだ戻ってこられるので」
「戻ってくる?」
先輩が首をかしげたので、私は小声で事情を説明しました。
「お会計の途中で、化粧室に行かれて…」
「え、会計終わる前に?」
「はい。呼んだんですけど、うまく言えなくて……」
自分で話しながら、情けなくなってきました。
その方が戻ってこられたのは、それから少ししてからです。
こちらを見ることなく、ご自分でお札と小銭を機械へ入れ、釣り銭を受け取ると、そのまま出口へ向かわれました。
戸が閉まってから、先輩が私の横へ来ました。
「もしかして、ずっとここで待ってたの?」
「……はい」
「何分くらい?」
時計を見ると、5分ほど経っていました。
「先にお会計をお願いしますって……言えばよかったんですよね」
「うん。それは普通に言って大丈夫だよ」
先輩は少し笑ってから続けました。
「怒るわけじゃないんだから。『すみません、お会計だけ先にお願いします』でいいの」
「ですよね……。なんで言えなかったんだろう」
「次、言えれば大丈夫」
「はい。次はちゃんと言います」
私はようやくレジを離れ、布巾を手に取りました。
そして、湯呑みだけが残ったいつもの席へ向かいました。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた20代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














