「卵はまだ入るね」ホテルの朝食会場。だが、子供のポケットの中身に思わず目を疑ってしまった
目が届かない場所は、たしかにあった
旅先で泊まった大きなホテルの朝食は、披露宴会場のように広い部屋でのバイキングだった。
料理は中央にまとめて並び、皿を補充するスタッフも、たいていはその周りに立っている。
私たちが案内されたのは、そこから遠く離れた壁ぎわの席だった。
「せっかくなら、もう少し近い席がよかったね」
連れとそんな話をしながら座って、しばらくして気づいた。会場が広いぶん、中央から奥までは視線が通らない。
この一角は、部屋の中でいちばんスタッフの目が届きにくい場所なのだ。
隣のテーブルには、両親と小学生の子ども3人の5人家族。母親が足元のかばんから、ふた付きの大きな容器を取り出すのが見えた。
朝食の席にはおよそ似合わない、家庭の台所にありそうな大きさだった。その光景を、私は今でも言葉のまま覚えている。
「卵はまだ入るね」
母親の声は明るく、悪びれた様子はまるでなかった。子どもたちのズボンのポケットは、すでに丸いもので膨らんでいる。ゆで卵が3個ずつ。
子どもたちは、親に言われたとおりにしているだけで、手渡されたものを素直にしまっているだけの顔をしていた。
静かに近づいてきた、ひとりのスタッフ
「ねえ、あれ」
連れに小声で伝えたものの、私にできることは何もなかった。他人の家族に口を出す立場ではないし、注意したところで角が立つ。
目をそらしても、また視界の端に容器が入ってくる。気まずさだけが、皿の上のパンと一緒に冷えていった。
そのとき、空いた皿を下げるスタッフが通りかかり、隣のテーブルの脇でそっと足を止めた。
周りに聞こえないほどの声で、両親のほうへ静かに話しかける。
「恐れ入ります。こちらのお料理は、館内でお召し上がりいただくお願いをしております」
「少し持って出るだけです」
父親がそう返しても、スタッフは表情を変えなかった。
「お作りしたものはいくらでもお持ちいたします。どうぞこちらで、ゆっくり召し上がってください」
母親がふたを閉じ、容器をかばんにしまった。
子どもたちのポケットからも、母親の手で卵が皿へ戻されていく。
一度も声が大きくならないまま、テーブルの上が元どおりになっていった。スタッフは最後に、子どもたちのほうへ笑いかけた。
「おかわり、お持ちしますね」
子どもたちがうれしそうにうなずくのを見て、私はようやく肩の力が抜けた。目を伏せることしかできなかった自分の気まずさも、その一言で静かにほどけていった。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














