「実は、今日でここを辞めるんです」ほとんど話さなかった常連客。だが、最終出勤日の何気ない会話に心温まった瞬間
毎週金曜日に来る常連客
学生のころ、商店街にある小さなカフェでアルバイトをしていました。
金曜日の夕方になると、ほぼ決まった時間に来る年配の男性がいました。
店に入ると窓際の席に座り、メニューを開くこともなく注文します。
「ブレンドを、ホットでお願いします」
注文は毎回同じでした。
私が「かしこまりました」と答えても、そのあとは特に会話はありません。コーヒーを運ぶと軽く頭を下げ、ゆっくり飲んで帰っていきます。
最初のころは、少し緊張するお客さんでした。
怒っているわけではありません。ただ、表情があまり変わらず、必要なこと以外はほとんど話さないので、こちらから雑談をするきっかけもつかめなかったのです。
いつの間にか覚えていたこと
それでも毎週顔を合わせているうちに、私も男性のことを少しずつ覚えるようになりました。
いつもブレンドを頼むこと。砂糖もミルクも使わないこと。窓際の席が空いていれば、ほぼ必ずそこに座ること。
ある寒い日のことです。
男性が店に入り、いつもの席に座ったので、私は注文を聞きに行きました。
「ブレンド、ホットですよね」
そう言うと、男性が一瞬こちらを見ました。
「覚えてくれてるんだ」
「毎週いらっしゃいますから」
私が答えると、男性は小さく笑いました。
それまで笑った顔を見たことがなかったので、少し驚いたのを覚えています。
それからも会話が急に増えたわけではありません。ただ、ときどき「今日は寒いね」「雨がひどいね」と、男性のほうから一言だけ話しかけてくれるようになりました。
私も以前ほど緊張せずに接するようになっていました。
アルバイト最後の金曜日
大学を卒業することになり、私はそのカフェのアルバイトを辞めることになりました。
最後の出勤日は金曜日でした。
いつもの時間になると男性が店に入り、いつもの窓際の席に座ります。
私はコーヒーを運んだあと、思い切って声をかけました。
「実は、今日でここを辞めるんです」
男性は少し驚いたように顔を上げました。
「そうなの。卒業?」
「はい。春から就職することになって」
「それは、おめでとう」
それだけ言うと、男性はいつものようにコーヒーを飲み始めました。
やはりあっさりした人だなと思いながら、私はほかのお客さんの対応に戻りました。
一時間ほどして、男性が会計に来ました。
代金を受け取ると、男性は財布をしまいながら言いました。
「毎週、注文を覚えていてくれたでしょう」
「はい」
「あれ、うれしかったよ」
私は思わず男性の顔を見ました。
「いつも覚えていてくれて、ありがとう。仕事、頑張ってね」
そう言って、男性はいつものように店を出ていきました。
特別に長い会話をしたわけでもありません。男性がどんな仕事をしているのか、どこに住んでいるのかも、最後まで知りませんでした。
それでも、毎週同じ時間に顔を合わせ、同じ注文を聞いていたことを、相手もちゃんと覚えてくれていたのだと知りました。
接客では、会話の多さだけが距離の近さではないのかもしれません。
社会人になった今でも、金曜日になると、ときどきあの窓際の席と「ありがとう」という一言を思い出します。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














