「持ち帰りはマナー違反ですよ」朝食会場で食べ物を持ち帰ろうとした客。だが、他の客が声をかけた結果
2泊3日の旅、最後の朝食会場で
温泉旅館の朝食バイキングは、旅の締めくくりのような時間だと思う。
昨年の秋に出かけた2泊3日の国内旅行でも、最終日の朝くらいはゆっくり食べようと決めていた。
会場はチェックアウト前の人でそれなりに混んでいて、席と席の間隔も近かった。
隣のテーブルに、四十代くらいの男性が座っていた。
トレーには、大皿から取り分けたゆで卵と果物が山のように積まれている。
ずいぶん食べる人だと思ったけれど、旅先の朝はそんなものだと思い直した。
男性が足元のバッグに手を伸ばしたのは、そのすぐあとだった。
出てきたのは、大きめの保存袋だった。
男性は周りをキョロキョロと見回し、確かめるように一拍置いてから、皿の上のものを袋へ移し始めた。
卵が転がり、果物が重なる。
私は目を疑った。食べ切れなかった分をそっと包む、という手つきではない。
最初から持ち帰るつもりで来た人の動きに見えた。それでも私は何も言えず、味噌汁の椀を持ったまま固まっていた。
関わりたくない、という気持ちのほうが先に立ってしまった。
気づいたのは、私の反対側、近くの席にいた人だった。声をかけるかどうか迷うような間があって、それからテーブル越しに、静かな声が届いた。
「あの、すみません」
「持ち帰りはマナー違反ですよ」
とがめるというより、言いにくいことをようやく言った人の声だった。
大きな声のあと、男性が見せた顔
男性の手が止まった。顔を上げ、袋を握ったまま口を開く。
返ってきたのは、思いがけないほど大きな声だった。
「お金を払ってるんだから、いいだろ」
「文句言うな」
声を荒らげた瞬間、会場の音が消えた。
食器の触れる音も、話し声も止まって、テーブルの列のあちこちから視線が集まる。
誰も男性を責めはしなかった。ただ静かに、見ていただけだ。
その静けさに、男性の表情が変わった。
言い返した相手を見ることも、周りを見渡すこともできないまま、袋を胸のあたりに抱えて立ち上がる。皿を戻すことも、椅子を入れることもなく、うつむいたまま足早に出口へ向かっていった。
入れ替わりに来たスタッフが、空いた大皿を下げ、棚の器を何事もなかったように並べ直していく。
バイキングは、居合わせた人が同じ場所から取り分ける食事だ。
だからこそ、ひとりの振る舞いで空気ごと変わってしまう。
旅の最後の朝に残ったのは、正直に言えば少し苦い後味だった。
それでも、あのとき静かに声をかけた人がいたから、私は嫌な記憶だけを持ち帰らずに済んだ。私が言えなかった一言を、代わりに言ってくれた人がいた。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














