「本当に今日焼いたの?」パン屋で交換を迫る客。だが、常連客の言葉に絶句
交換して、と言い出した客
去年の春、子どもの習い事の帰りに、通り道の個人経営のパン屋へ立ち寄りました。焼き上がりの匂いが、外まで流れています。
レジには三人ほど並んでいます。一つ前にいた五十代くらいの女性が、トレーを台に置くなり、若い店員に切り出しました。
「本当に今日焼いたの?」
「本日の午後に焼いた物です」
「なんだか硬いのよ。交換して」
店員はケースへ目を落とし、言葉を選びながら答えました。
「申し訳ございません。同じ種類は、あと一個しか残っていなくて」
「じゃあ、棚の分を全部持ってきて。私が選ぶから」
トングを取った店員が、棚とカウンターを行き来し始めました。並べられたパンを、女性は袋の上から一つずつ押していきます。
「これも硬い。次」
「そちらは、生地を寝かせて焼いている物でして」
「言い訳はいらないの。次を出して」
列は入口の前まで伸びていました。店内の話し声も、いつのまにか消えています。5分ほど、それが続きました。
「やっぱりいいわ」
選んだのは、いちばん最初に自分で取ったパンでした。
列の後ろから聞こえた声
すぐ後ろに、白髪をまとめた年配の女性が立っていました。買い物かごを提げたまま、静かに口を開きます。
「ここのご主人はね、毎朝4時から焼いてるのよ」
怒った声ではありませんでした。世間話をするような調子です。
「私は20年通ってるけど、硬かったことなんて一度もないわ」
店の中の音が、すっと引きました。列の中ほどの男性がうなずきます。ベビーカーを押していた人も、同じように顎を引きました。誰も何も言いません。それでも、みんながどちらに立っているかは分かりました。
女性客は、財布を持ったまま動きませんでした。
「……そんな、責めてるわけじゃ」
そこで言葉が途切れます。もう一度口を開きましたが、声にはなりません。視線だけが天井のほうへ逃げていきます。
年配の女性は、追い打ちをかけません。店員のほうを向いて、目元だけで笑っただけです。
女性客は代金を台に置くと、袋も受け取らずに出ていきました。
私の番になると、店員は何度も頭を下げました。
「お待たせして、申し訳ありませんでした」
「大丈夫ですよ。ここのパンが好きで来てるので」
後ろから、年配の女性が言い足しました。
「私は明日も来ますからね」
店員が、その日はじめて顔を上げて笑いました。
数週間後にまた寄ると、棚の端に手書きの札が増えていました。商品にはトングをお使いください、と書いてあります。
レジの奥から、あの日の店員の声が聞こえます。焼き上がりを知らせる、迷いのない声でした。
※tendが独自に実施したアンケートで集めた、40代・女性読者様の体験談をもとに記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














