「玄関の前まで、猫が集まってくるんです」勝手に野良猫に餌をあげていた住人。だが、思わぬきっかけで状況が一変
言えないまま、季節だけが過ぎた
団地に住んでいたころ、同じ棟の上の階の方が、野良猫に餌をやっていた。
おかげで棟の周りには、いつも猫がいた。
植え込みの陰、階段の下、自転車のサドルの上。動物が苦手な私は、外に出るたびに身を固くしていた。
「玄関の前まで、猫が集まってくるんです」
同じ階の方が、ため息まじりにそう言った。
分かります、と返しながら、私はその先を言えなかった。
「うちも、洗濯物のそばまで来ていて」
集まればその話になるのに、そこから先へは進まない。
誰の口からも、あの方の名前だけは出なかった。
ここは、動物を飼うことが禁止されている。
だから外の猫をかわいがっていたのだろうと、みんな察していた。
ただ、その方はとても穏やかで、親切な人だった。
回覧板も掃除当番も丁寧で、廊下ですれ違えば必ず先に挨拶をしてくれる。
そのこと以外で困らされたことは、まったくなかった。
だからこそ、猫のことだけを切り離して伝える言い方が、どうしても見つからなかった。
「あの方に、誰か言いますか」
そう聞かれても、手が挙がらない。悪意のある人ではないと知っているぶん、口にすれば自分が冷たい人間になったように感じられた。
結局、話はいつも途中で消えた。
その日、団地が動いた
変わったのは、ある日の騒ぎがきっかけだった。
網戸のすきまから猫があるお宅に入り込み、和室の押し入れで子猫を産んでいたのだ。
「押し入れを開けたら、いたんです」
そのお宅の方は、まだ驚きが抜けない様子だった。人に慣れきっていたから、家の中まで平気で上がってきたのだろう。棟の中は、その話でもちきりになった。驚きと戸惑いだけが、廊下じゅうに広がっていた。
「餌をやる人がいるから、こうなるんですよ」
声を荒らげる方もいた。
長いあいだ誰も口にしなかったことが、堰を切ったようにあふれ出していた。
話は自治会へ持ち込まれ、集会所で話し合いの場が持たれた。
誰が悪いという話ではなく、これからどうするかという話として進んだ。
順番に手が挙がり、みんなが同じことを思っていたのだと、そこで初めて分かった。
出た結論は、団地の敷地で餌をやらないこと。それが決まりとして、きちんと文字になった。
「これなら、誰も気を遣わずに済みますね」
帰り道、そう言い合った。誰かが責められて終わったわけではない。
言えないまま抱えていたものが、やっと置き場所を見つけた。それだけのことが、こんなにも軽い。棟の前を通っても、もう身を固くしなくていいのだと思った。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた60代以上女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














