「荷物を1つお持ちします」混雑した電車で動けなくなった母親に、隣の人が差し出した手
通路がふさがれたまま、3駅が過ぎた
去年の冬の夕方、帰宅ラッシュの電車に乗っていた。
私はドアの横の手すりに寄りかかり、鞄を足のあいだに置いていた。
降りる人より乗る人が多い時間で、駅に着くたびに肩と肩のすきまが消えていく。
ベビーカーを押した母親が乗ってきたのは、次の駅だった。
片手で取っ手を握り、もう片方の腕には大きめの紙袋を提げている。入口にいた人たちが少しずつ体を引き、ベビーカーが入れるだけの場所をつくった。
ただ、ドア付近には次の駅で降りる人も集まっていた。
母親は邪魔にならないよう、少し奥へ進もうとしたようだった。
ところが通路の途中で止まった。中央の座席に五十代くらいの男性が足を広げて座り、その前には大きな鞄が置かれている。
立っている人との間も狭く、そのままではベビーカーが通れそうになかった。
母親が少しためらってから声をかけた。
「すみません。ベビーカーだけ通したくて…少し荷物、寄せてもらえませんか」
男性は一度足元を見たものの、鞄には手を伸ばさなかった。
「ここ、通れるでしょ。こっちも動かせないんだよ」
母親は困ったようにベビーカーを見て、もう一度だけ頼んだ。
「すみません、これだとちょっと通れなくて…少しだけでいいんです」
すると男性は眉を寄せた。
「だから、これ以上は無理だって」
さっきより強い声だった。
近くにいた人たちは視線を落としたり、窓の外を見たりした。私も何か言ったほうがいいと思いながら、声を出せなかった。
母親は一度、別の車両へ移ろうと後ろを見た。しかし乗ってきた人たちでドア付近も詰まっていて、ベビーカーの向きを変えられるほどの余裕はない。
結局そのまま、3駅ほど身動きが取れない状態が続いた。ベビーカーの中では、子どもが眠ったままだった。
動いたのは声ではなく、立ち位置だった
最初に動いたのは、私の隣に立っていた学生風の青年だった。
吊り革を持ち替えると、体を横向きにして通路側を空けた。
「こっち、少し空けます。ゆっくりなら通れそうです」
向かいに立っていた女性も、それを見て鞄を胸の前に抱えた。
「私も寄ります。もう少しこっちへどうぞ」
私も慌てて足元の鞄を持ち上げ、半歩ドア側へ寄った。
男性の荷物そのものは動いていない。それでも周囲の3人が位置を変えたことで、反対側にベビーカーが通れそうな幅ができた。
母親は何度も頭を下げた。
「すみません…ありがとうございます。ゆっくり行きますね」
ベビーカーを動かした瞬間、腕に提げていた紙袋が取っ手に引っかかって大きく揺れた。
すると、すぐ横にいた年配の男性が手を差し出した。
「荷物を1つお持ちします。こっち、貸してください」
母親は一瞬驚いた顔をしてから、紙袋を渡した。
「あ…すみません。本当に助かります」
「大丈夫ですよ。転んだら危ないですから」
それだけ言うと、男性は自分の鞄と紙袋を胸の前で抱えた。
そこから二つ先の駅で、足を広げて座っていた男性が立ち上がった。床の鞄を持ち上げると、周囲には何も言わず、そのまま人の間を抜けて降りていった。
空いた座席を見て、年配の男性が母親に声をかけた。
「ここ、空きましたよ。よかったら座ってください」
「いいんですか。ありがとうございます。ずっと立ってたので…助かります」
母親が座ると、年配の男性は預かっていた紙袋を返した。
ベビーカーは、さっきみんなで空けた場所にちょうど収まった。
電車が再び動き出すと、母親はようやく肩の力を抜いたように見えた。子どもは最後まで、一度も目を覚まさなかった。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














