「若い人は元気でいいねえ」遠回しに席を求め続けた男性。隣の女性が立つと、大きな声が止まった
3度くり返された声で、車内の視線が集まった
その日は朝から打ち合わせが三つ続き、夕方には声を出す気力も残っていなかった。
帰りの電車で座れたのは、その週に入って初めてだった。
扉から少し離れた、一般の座席だ。
混みはじめたのは二つ先の駅からだった。
私の目の前に、白髪の年配の男性が立った。片手に杖を持ち、もう片方の手で吊り革につかまっている。
しばらくすると、男性が周囲にも聞こえる声で言った。
「いやあ、若い人は元気でいいねえ」
最初は独り言なのだと思った。けれど少しして、今度は私のほうを見ながら続けた。
「こっちはもう、立ってるだけでもしんどくてねえ」
私は膝の上の鞄を抱え直した。
さらにしばらくすると、男性は大きく息を吐いた。
「昔なら平気だったんだけどなあ。年を取るとだめだね」
席を譲ってほしいとは、一度も言われていない。それでも、近くにいる人たちの視線がこちらへ向いているのが分かった。
朝から動き回って、ようやく座れたところだった。それでも男性の前で座り続けていることが、だんだん悪いことのように思えてくる。
顔が熱くなった。自分の降りる駅はまだ先だったが、次の駅で降りてしまおうかとまで考えた。
隣の女性が、本を閉じた
そのとき、隣から本を閉じる小さな音がした。
五十代くらいの女性が文庫本を鞄にしまい、荷物を持って立ち上がった。
そして、私の前にいる男性へ体を向けた。
「どうぞ。よかったら座ってください」
男性は少し驚いたように女性を見た。
「いや、そこまでしてもらわなくても…」
さっきまでとは違い、声が急に小さくなった。
女性は責める様子もなく、空いた席を軽く示した。
「大丈夫ですよ。私は立っていられますから」
男性がまだ動かなかったので、女性はもう一度声をかけた。
「どうぞ。座ってください」
少し間を置いて、男性は「じゃあ…すみませんね」と腰を下ろした。
その瞬間から、それまで何度も聞こえていた大きな声は止まった。
男性は両手を杖の上に重ね、まっすぐ前を向いていた。次の駅に着くまで、聞こえるのは電車の走行音だけだった。
女性は私の斜め前で吊り革につかまり、何事もなかったように窓の外を見ていた。先ほどまで集まっていた周囲の視線も、いつの間にかそれぞれの手元へ戻っている。
私は結局、自分の降りる駅まで座っていた。
駅に着いて立ち上がったとき、女性と一瞬だけ目が合った。
女性が小さく会釈したので、私も「ありがとうございました」という気持ちで頭を下げた。
何か特別な言葉を交わしたわけではない。それでも、あのとき黙って席を立ってくれた女性のことは、今でも覚えている。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














