「こちらの席、空けてもらえますか」荷物でふさがれた席。声をかけた男性が座らなかった理由とは
荷物が置かれたままの、1席
朝の車内は、駅に停まるたびに人が増え、肩と肩のすきまがなくなっていく時間帯だった。
私は座席の端にある手すりにつかまり、片手には折りたたんだ上着を抱えていた。周りには立っている人が10人ほどいたと思う。
目の前の座席に、ひとつだけ空いているように見える場所があった。
けれど、そこには旅行用の鞄と紙袋が置かれている。隣に座っている人は手元を見たままで、目の前に何人も立っているのに、荷物へ手を伸ばす様子はなかった。
私の斜め前には、杖をついた年配の女性が立っていた。電車が揺れるたびに体が少し前へ動き、そのたびに手すりを握り直している。
空いているのに座れない。
私も気になっていたが、自分から声をかけることはできずにいた。
すると、少し離れた通路側に立っていた男性が、荷物の主へ顔を向けた。
「すみません。そこ、荷物をよけてもらってもいいですか」
穏やかな声だったが、返事はなかった。
男性は少し待ってから、もう一度声をかけた。
「すみません。こちらの席、空けてもらえますか」
そこでようやく荷物の主が顔を上げた。周囲を見回してから、何も言わずに鞄と紙袋を自分の膝の上へ移した。
隠れていた座面が見え、ようやく1席ぶんの場所が空いた。
「いえ、大丈夫です」と首を振った女性
声をかけた男性は、自分ではその席に座らなかった。
杖をついた女性のほうへ体を向け、空いた席を手で示した。
「よかったら、どうぞお使いください」
女性は少し驚いた顔をして、すぐに首を振った。
「いえいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
遠慮しているようだった。
男性は無理に近づかず、もう一度席を示した。
「本当に、どうぞお使いください。僕、次で降りますから」
それでも女性は、「でも…」と男性と席を交互に見ていた。
そのとき、電車が少し大きく揺れた。女性が慌てて杖を握り直す。
それを見た男性が、少し声を落とした。
「揺れますし、どうぞお使いください。座っていたほうが安心ですよ」
三度目にそう言われて、女性はようやく表情をゆるめた。
「じゃあ……すみません。ありがとうございます」
小さく頭を下げながら、ゆっくりと腰を下ろした。
女性が座ると、それまで立っていた場所に少し余裕ができた。近くにいた人たちも半歩ずつ位置をずらし、杖を邪魔にならないところへ置けるだけのすきまができた。
やがて次の駅が近づくと、女性が男性を見上げた。
「本当にありがとうございました」
男性は少し笑って、
「いえ、大丈夫ですよ」
とだけ返した。
電車が停まると、男性は言ったとおりそこで降りていった。
荷物の主は、その後も鞄と紙袋を膝に抱えたまま座り、さらに二つ先の駅で降りていった。
混んだ車内で、荷物にふさがれていたたった1席。強く責める声も、気まずい言い争いもなかった。それでも、必要なひと言を口にした人がいたことで、その席は必要としている人が使える場所に戻った。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた20代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














