「また始まったね、練習」近所の子供の響く打球音。だが、突如打球音が聞こえなくなったワケ
終わりの見えない音
休みの日の朝は、本を読むと決めていた。コーヒーを淹れて、窓際に座る。一週間のなかで、いちばん楽しみにしている時間だった。
その時間が消えたのは、近所の家が庭にネットを張ってからだ。
子どもが金属バットを振る。
当たると、高い音が閑静な住宅街いっぱいに広がる。金属の響きは、思っていたよりもずっと遠くまで届いてしまう。
「また始まったね、練習」
家族はそう言うだけで、誰も文句までは言わなかった。言っても仕方がないと、みんな分かっていた。
「窓、閉めるね」
つらかったのは、音の大きさよりも、見通しの立たなさだったと思う。
いつ始まるのか、どれくらい続くのか、まったく分からない。
静かなうちにと本を開くと、その日に限ってすぐに鳴りはじめる。音のすきまを探して暮らしている自分に、少し情けなくなった。
それでも、直接は言えなかった。子どもの練習を止めさせる人になりたくない。
ご近所づきあいは、この先も長く続く。数年、そうやって黙っていた。
回覧板と、通りかかった人
その休日も、音は鳴っていた。インターホンが鳴り、出てみると回覧板だった。
受け取って判子を押していると、持ってきた近所の人が、世間話のついでのように言った。
「公園のほうまで、あの音が届くんです」
咎める調子はまったくなかった。天気の話をするのと同じ声だった。
ただ、そのとき道の向こうから、練習をさせている家の人が歩いてきていた。
その人の足が、止まった。
回覧板の人は気づかないまま、「うちのあたりでも聞こえますよ」と笑って重ねた。
誰も責めてはいない。ただ、そこまで届いているという事実だけが、玄関先に残った。
「じゃあ、次のお宅にまわしますね」
私は何も言わなかった。謝る立場でもなければ、責める立場でもない。
ずっと黙ってきた側として、ただそこに立っていた。その人は小さく頭を下げて、自分の家のほうへ帰っていった。
次の休日、庭のネットは片づけられていた。
「休みの日は、公園でやらせています」
買い物の帰りに会ったとき、その人はそう言った。
広いほうが思い切り振れるのだと、どこか嬉しそうだった。練習をやめさせたわけではない。場所が変わっただけだ。
その朝、私は窓を開けたまま椅子に座った。遠くの公園から、風に混じってかすかに音が届く。
それはもう、休日の景色の一部でしかなかった。膝の上の本を、私は最初のページから読みはじめた。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














