「そっか、寂しくなるな」無口だった常連客に退職を伝えた。返ってきた思いがけない一言とは
短い返事が、少しずつ長くなった
飲食店で働いていた頃、いつも一人で来るお客さんがいた。年配の方で、座るのは決まってカウンターの端。注文するときも必要なことしか話さず、最初のうちは少し近寄りがたい人だと思っていた。
静かに食べたいのだろうと思い、こちらから無理に話しかけることはしなかった。
カウンターの端は、テレビからいちばん遠い席だった。その人はそこで、焼き鳥を一本ずつゆっくり食べていた。
私は焼き場に立ちながら、ときどきその様子を横目で見ていた。話しかけることはなくても、料理を置くときには「お待たせしました」、皿を下げるときには「ありがとうございます」と声をかける。それだけは毎回変えなかった。
ある日、いつもの焼き鳥を出したときだった。
「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね」
皿を置くと、その人が珍しく顔を上げた。
「うん、ありがとう。……今日もいい匂いだね」
「ありがとうございます」
私が少し驚きながら答えると、その人は焼き鳥を一本手に取り、ぽつりと続けた。
「ここに来るとさ、なんか落ち着くんだよ」
思いがけない言葉に、一瞬返事が遅れた。
「そう言ってもらえると、うれしいです」
その人は少し照れたように笑うと、「うん」とだけ返し、またいつものように食べ始めた。
それから、来店されるたびに少しずつ会話が増えていった。
寒い日に私が、
「今日はほんとに冷えますね」
と声をかけると、
「寒いねえ。こういう日は、焼きたてが一番うまいよ」
と返してくれる。
焼き加減を少し気にしていると、
「今日のもいいよ。そんな難しい顔しなくても大丈夫」
と言われ、思わず笑ってしまったこともあった。
店の前で工事が始まった日は、
「朝からずっとにぎやかだね。店の人も大変だろ」
と向こうから話しかけてきた。
最初は「そうだね」の一言で終わっていた人なのに、気づけばそんな世間話をするようになっていた。
片づけをしていた同僚も、その変化に気づいていた。
「あのお客さん、最近すごく話してくれますよね」
「ね。最初はほとんどしゃべらなかったのに」
「店長より、あなたと話してるほうが楽しそうですよ」
「それは言いすぎ」
二人で笑った。
名前も、どんな仕事をしている人なのかも、私は最後まで知らなかった。それでも、引き戸が開く音がすると、なんとなく「あの人かな」と思うようになっていた。
辞めることを伝えた日
やがて私は、店を辞めることになった。
最後の勤務日、その人はいつもと同じ時間にやってきて、いつものカウンターの端に座った。
「いつもの、お願いね」
「はい。今日は少し待ってくださいね」
「いいよ、急がなくて」
いつもと変わらないやり取りだった。
焼き鳥を食べ終え、皿を下げようとしたとき、私は今しかないと思って声をかけた。
「あの……実は私、今日でこの店を辞めるんです」
その人の手が止まった。
「え、今日で?」
「はい。今までありがとうございました」
そう言って頭を下げると、その人は少し黙った。
いつもならすぐ伝票を手に取るのに、その日はおしぼりをたたみながら、何か言葉を探しているようだった。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「そっか。寂しくなるな」
その一言に、胸が少し詰まった。
「私も、最後にお会いできてよかったです」
するとその人は、少し笑って言った。
「最後の焼き鳥もうまかったよ。次の仕事でも頑張ってね」
「……ありがとうございます。本当に」
それ以上はうまく言葉が出なくて、私はもう一度頭を下げた。
その人は「じゃあ、元気でね」と伝票を持ち、いつものように静かに店を出ていった。
引き戸が閉まったあと、私はしばらくカウンターの端を見ていた。
最初は近寄りがたいと思っていた人と、いつの間にか天気の話をしたり、焼き加減の話をしたりするようになっていた。そして最後には、私のほうが励ましてもらっていた。
その席を拭きながら、これまで交わした短い会話を何度も思い出した。
あの日の「頑張ってね」は、今でも覚えている。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた30代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














