「俺だって、この店が嫌いなら何も言わないよ」毎日のように指摘を続けた客。だが、店長が見せた対応とは
レジの脇に紙が貼られた日
書店で働いていた頃、店の中の小さな不備をよく教えてくれるお客さんがいました。本についたわずかな汚れや、違うジャンルの棚に紛れ込んだ一冊まで、よく気づく人でした。
ある日も、一冊の本を持ってレジへやってきました。
「ちょっと、これ見て。ここ、汚れてるでしょう」
差し出された本を見ると、確かに表紙の端に薄い汚れがあります。
「申し訳ありません。すぐ確認します」
私が頭を下げると、その人は少し身を乗り出しました。
「いや、怒ってるわけじゃないんだよ。たださ、こういうのって誰かが言わないと、そのままになっちゃうでしょう?」
「はい……ありがとうございます」
指摘そのものは間違っていません。こちらに落ち度があれば直すのは当然です。
ただ、その人の場合はそこから話が長くなることがよくありました。
「俺だって、この店が嫌いなら何も言わないよ。よく来るから気になるんだって」
「そうですよね」
「前にも棚の場所、教えたでしょう?あれもちゃんと直したほうがいいと思って言ったんだから」
後ろにお客さんが並び始めても、なかなか話は終わりません。レジを離れられず、品出しも止まります。
同じようなことが何度も続き、スタッフの間でも「今日は何か言われるかな」と身構えるようになっていました。
そんなある日、その人がまたレジで話し始めると、店長がカウンターまで出てきました。
「いつもありがとうございます。気づいたことを教えていただけるのは、本当に助かっています」
その人は少し嬉しそうにうなずきました。
「そうだろ?別に文句を言いたいわけじゃないんだよ」
「はい。なので、これからはご指摘を全部こちらで記録することにしました」
「記録?」
「はい。スタッフで確認して、直したものについては、レジの横に出します。せっかく教えていただいたことを、その場だけで終わらせたくないので」
店長は責めるような言い方をしませんでした。ただ、これからの受け止め方を淡々と説明しただけでした。
その人も少し考えてから、「ああ、それなら分かりやすいな」と答えました。
翌日、レジの脇には小さな紙が貼られていました。店内で改善したことを、短く書いて知らせるためのものでした。
それを見た同僚が、小声で私に言いました。
「これなら、ちゃんと聞いてますって伝わりますね」
私は思わず、「うん。話を聞きながらレジが止まることも減るかも」と返しました。
指摘ではなく、本の話をしに来た
記録を始めても、その人からの指摘がすぐになくなったわけではありません。
「ここの棚、さっき一冊違うのが入ってたよ」
「ありがとうございます。確認して記録しておきますね」
「うん、頼むよ」
以前ならそこから話が続くこともありましたが、記録するようになってからは、そのやり取りだけで終わる日が増えていきました。
改善した内容が貼り出されていると、その人は足を止めて眺めることもありました。
「あ、この前のやつ、直したんだ」
「はい。教えていただいて助かりました」
「そっか。ならよかった」
そんな短いやり取りで、その日は棚のほうへ戻っていきました。
しばらくすると、指摘そのものも以前ほど頻繁ではなくなりました。本棚をゆっくり見て回り、何も言わずに帰る日も増えていきました。
ある夕方、その人がレジへ向かってきました。
私は反射的に記録用のペンへ手を伸ばしました。
すると、その人は少し首をかしげました。
「いや、今日は違うよ」
「え?」
「この作家の新刊、もう入った?」
思わず私はペンから手を離しました。
「あ、そちらですね。少々お待ちください。確認します」
端末で調べると、発売は翌週の予定でした。
「来週には入る予定です」
「来週か。じゃあ、また来るよ」
「はい、お待ちしています」
その人はそれだけ言うと、もう一度棚を見ながら店を出ていきました。
何度も頭を下げながら長い話を聞いていた相手と、初めてごく普通に本の話をしたような気がしました。
店長が相手を言い負かしたわけでも、来店を断ったわけでもありません。こちらが受け止める方法を少し変えただけです。
それでも、店の空気は確かに変わりました。
店を辞めた今でも、ときどきあのレジ脇の紙を思い出します。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた40代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














