「印鑑を貸して、すぐ返すから」米や醤油を借りに来る近隣の住人。だが、行き過ぎた要求に思わず絶句
借りたきり返さない人
マンション暮らしで一番気を遣うのは、上下の階の付き合いだと思う。私の真上に住んでいた奥さんは、そのお付き合いの距離感が、どこかずれている人だった。
ある日「お米を少し分けてもらえない」と訪ねてきたのが始まりだった。
困っているなら、と分けてあげた。すると翌週は味噌、その翌週は醤油。台所のものだけでは済まず、やがて料理の本や、お子さんの学校で使う道具まで借りにくるようになった。
共通していたのは、どれ一つとして返ってこなかったことだ。
催促すれば関係がこじれる。そう思って飲み込むうちに、貸す側の遠慮が、いつの間にか相手にとっての当たり前になっていた。
何度か思い切って「あのお鍋、まだ使う?」と遠回しに尋ねたこともあったが、そのたびに「もう少し借りていていい?」と笑顔で返されて、私は言葉を継げなくなった。
悪気がないぶん、たちが悪い。この人の中では、私の家の物と自分の家の物の境界が、最初から曖昧なのだと感じるようになった。
貸せない物
その日の夕方、玄関先に立った奥さんは、いつもと同じ人懐っこい笑顔だった。
てっきり、また調味料か何か、いつもの日用品の類だろうと思って、私は身構えもせずにドアを開けた。ところが、その口から出てきたのは、思いもよらない一言だった。
「印鑑を貸して、すぐ返すから」
すぐ返すから、という言葉が、まるでお米のときと同じ軽さで並んでいた。
けれど、印鑑はお米ではない。
それは、この人の名前ではなく、私の名前を紙の上に残してしまう物だ。他人の家の印鑑を、いったい何に使うつもりなのか。
書類、届け出、契約。頭に浮かぶのは、どれも軽々しく他人に触らせてはいけないものばかりだった。理由を尋ねる気にもなれず、ただ想像だけが膨らんで、手のひらにじわりと汗がにじんだ。今まで貸してきた米も醤油も、この一言の前触れだったのではないか。
そんな考えまで頭をよぎって、背中がひやりとした。
私は「大切な印鑑は流石に貸せないの」と、できるだけ穏やかに、けれどはっきりと断った。
奥さんは一瞬きょとんとして、それから「そう」とだけ言って上の階へ戻っていった。
悪びれる様子はまるでなかった。その屈託のなさが、何より不気味だった。
米や醤油と同じ棚に、人の印鑑を並べて考えられる人。断れて本当によかったと、あとになるほど胸をなでおろした。あの日から私は、玄関のチャイムが鳴るたびに、ほんの少し身構えるようになってしまった。
※tendが独自に実施したアンケートで集めた、50代・女性読者様の体験談をもとに記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














