「音、少し下げてもらえますか」静かな列車で響いていた動画音。だが、車掌が注意した結果
開いたままの扉の向こうから、動画の音が聞こえた
その日の列車は、一つの車両に十人もいなかった。
夏の昼で、窓の外には田んぼと低い山が順に流れていく。私は通路側に座り、膝に置いた文庫を読んでいた。
前のほうの席から、一人の乗客が立ち上がった。
その人はスマートフォンを手にしたまま、車両のいちばん後ろまで歩いていく。連結部の扉を開け、その向こう側に立った。
少しすると、人の話し声と音楽が混じったような音が聞こえてきた。
スマートフォンで動画を見ているようだった。
席から離れた場所なら大丈夫だと思ったのかもしれない。
ただ、連結部の扉が開いたままだったため、音は静かな車内にそのまま入ってきた。
斜め前に座っていた年配の人が、連結部のほうを振り返った。
「結構、聞こえますね」
「そうですね…」
私は小さく答えた。
音量そのものは驚くほど大きいわけではない。それでも、ほかにほとんど音のない車内では気になった。
注意しに行くほどなのか迷っているうちに、私は文庫の同じ行を何度も読み直していた。
車掌が連結部の前で足を止めた
次の停車駅が近づいたころ、見回りをしていた車掌が前方から歩いてきた。
通路を進み、連結部の手前まで来たところで足を止める。
「すみません。音、少し下げてもらえますか」
穏やかな声だった。
けれど、動画の音に重なったのか、相手はすぐには気づかなかった。
車掌は少し近づいて、もう一度声をかけた。
「お客様、すみません。動画の音を少し小さくお願いできますか」
その人がちらりと振り返ったが、まだ音は流れていた。
車掌は責めるような口調にはならず、もう一度だけ言った。
「車内まで聞こえているので、お願いします」
そこでようやく、その人はスマートフォンの画面を見た。
「あ、そんなに聞こえてました?」
少し驚いたような声だった。
「はい。こちらまで結構聞こえていました」
「すみません」
その人はすぐに音を消した。
そして連結部の扉を閉め、スマートフォンを手にしたまま自分の席へ戻っていった。
車掌もそれ以上何かを言うことはなく、そのまま次の車両へ向かった。
斜め前の年配の人が、ほっとしたように息を吐いた。
「静かになりましたね」
「ですね」
私も文庫を開き直した。
今度は、さっきまで何度も読み返していた一行がすっと頭に入ってきた。
連結部の扉は閉じたままだった。列車はいつもの音だけを残して、次の駅へ向かっていた。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた40代男性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














