「ちょっと待ってください。こんなお金は受け取れません」ポケットに入れられた1万円。後日、お客様が渡してきた理由が発覚
何も言わずに、その人は出ていった
若いころ、ホテルのフロントに立っていました。出張で来られるらしいお客様で、これまでに何度も同じ曜日、同じくらいの時間にお見えになる方がいました。
何度か顔を合わせるうちに、こちらも顔を覚えるようになりました。ただ、その方はあまり話をする人ではありませんでした。
「おはよう」
「ありがとう」
私が聞いたことのある言葉は、それくらいでした。
ある日、チェックアウトを終えたその方が私のところへ近づいてきました。そして、何も言わないまま私の上着のポケットに何かを入れたのです。
驚いて取り出してみると、1万円札でした。
「ちょっと待ってください。こんなお金は受け取れません」
声をかけましたが、その方は振り返らず、そのままホテルを出ていきました。
どうして渡されたのかも分かりません。そのまま自分で持っているわけにもいかず、私は責任者に事情を話しました。
そして次に来られたときに返せるよう、1万円は封筒に入れて預かってもらうことになりました。
返そうとした封筒の前で、初めて聞いた理由
それからしばらくして、その方がまたホテルに来られました。
私は顔を見た瞬間、預かっていた封筒のことを思い出しました。
手続きが終わったところで封筒を用意し、カウンター越しに差し出しました。
「以前いただいたものです。やはり、この金額は受け取れません」
その方は封筒を見たまま、しばらく黙っていました。
それから、私がそれまで聞いたことのない長さの言葉を口にしました。
「いつも助かっているので、1万円でお茶でも買ってください」
私は思わず聞き返しました。
「いつも、ですか?」
その方が話してくれたのは、サービスに満足している、感謝の気持ちでした。
私たちにとっては、いつもの仕事の一つでした。
私はもう一度、手元の封筒を見ました。私一人へのお礼として受け取るのは、やはりためらわれます。
「それなら、スタッフみんなでお茶やお菓子をいただいてもいいですか」
そう尋ねると、その方は小さくうなずきました。
「うん」
それだけ言うと、いつものように部屋へ向かっていきました。
休憩室に並んだ、お茶とお菓子
後日、私たちはそのお金でお茶とお菓子を用意しました。
休憩室のテーブルに並べていると、同僚が「誰からですか」と聞きました。
「いつも泊まりに来る、あの方から」
そう答えると、「ああ、あの方ね」と笑う人もいました。
紙コップにお茶を注ぎながら、私はカウンターで交わした言葉を思い出していました。
あれから何年も経ちました。あの方が今どうしているのかは知りません。
お礼を言葉にするのが得意ではない方だったのかもしれません。それでも、こちらがしていた小さなことを覚えていてくれたことは、今でも忘れられません。
あの日、ただ受け取っていたら、理由を聞くことはなかったでしょう。返そうとしたからこそ、初めて知ることができた「ありがとう」でした。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた50代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














