「それ、一回取ったやつじゃない?」素手で触られたパン。だが、店員が取った静かな対応
通路の先で、トレイが重くなっていった
十数年ほど前の、夕方の売り場だった。子どもが決まった一種類しか食べなかったので、私は週に何度もその棚の前に立っていた。その日もトレイを持って、いちばん端から順に見ていた。
通路の少し先に、三人の家族がいた。トレイの上にはもう十個以上のパンが載っていて、ご夫婦と娘さんが楽しそうに相談しながら選んでいた。
「これも買っていこうか」
お母さんが一つ取ると、娘さんが隣の棚を見て声を上げた。
「あ、やっぱりこっちがいい。こっちのほうが好き」
「そうなの?じゃあ、こっちにする?」
お母さんは笑いながら、さっき取ったパンを手にした。そのまま棚へ戻したのを見て、私は思わず手を止めた。トングではなく、素手だった。
隣にいたお父さんも気づいたようだった。
「それ、一回取ったやつじゃない?」
「あ……そうか」
お母さんは一瞬、棚に戻したパンを見た。
「まあ、大丈夫かなって思って」
「いや、家の中じゃないんだからさ」
責め立てるような声ではなかった。お母さんも「そうだね」と短く返したが、一度戻されたパンは棚の手前に残ったままだった。
家族はそのまま次の棚へ移っていった。
私はトングを持ったまま、しばらくそのパンを見ていた。
片づけていった人の、背中だけを見ていた
少しすると、カウンターの内側にいた若い店員がこちらへ歩いてきた。棚の様子に気づいたようだった。
空のトレイと新しい紙を持ち、私の近くまで来ると軽く頭を下げた。
「すみません、こちら、いったん下げますね」
私が少し横へよけると、店員は続けた。
「新しいものと取り替えますので、少々お待ちいただけますか」
「あ、はい。大丈夫です」
店員がパンを下げようとしている間に、同じ棚の少し先にいた二人連れも商品を取ろうと近づいてきた。
「すみません、こちらだけ今、入れ替えますね。すぐお持ちします」
二人は「あ、分かりました」とうなずいて、その場で待っていた。
さらに別のお客さんが棚へ近づくと、店員はもう一度声をかけた。
「申し訳ありません。新しいものに替えますので、少しだけお待ちください」
大きな声ではなかったが、急かすような調子でもなかった。
店員は戻されたパンを紙で受け、そのままトレイへ移した。
誰かを責める言葉は一度もなかった。さっきの家族について何か言うこともなく、店員はその一つを静かに片づけていった。
しばらくすると、奥から新しい商品を持って戻ってきた。
「お待たせしました。こちら、もう大丈夫です」
棚に新しいパンが並べられると、隣で待っていた女性が小さな声で言った。
「ちゃんと替えてくれるんですね」
「びっくりしましたね」
私もそう返して、ようやくトングを動かした。
子どものぶんを一つ取って会計を済ませ、振り返ると、若い店員は下げたパンを載せたトレイを持って、カウンターの奥へ戻っていくところだった。
家族を追いかけて注意するわけでも、大きな声で事情を説明するわけでもない。ただ必要なものを静かに入れ替えていった、その姿が今でも印象に残っている。
※本記事は、tendが独自に実施したアンケートで寄せられた40代女性読者の体験談をもとに、プライバシーに配慮し、人物・状況・会話表現などを一部編集・再構成して記事化しています
※本コンテンツ内の画像は、生成AIを利用して作成しています。














